イディオッツ

イデオッツという映画をご存知だろうか。インディペンデントな映画作品なので、知る人ぞ知るといった映画ですが、監督はあのラース・フォントリアー。いい意味で人に違和感をあたえる作品が多いのが特徴です。そして、この手の映画を観るときに心得ておいてほしいのが、楽しめないの先にあるものについてです。

楽しめない作品を観るとき、その作品に対して自己肯定的な解釈をしたいという純粋な欲望も存在し、それこそが「ポジティブに捉えるという余地」になることを認識してほしい。なに一つ外的な現実が変わらなくても、人はより強く新しい現実を発見でき、たとえそれが自己内で完結しているような世界認識だとしても、それは良い意味で「主観的」な立場であるがゆえ、それらによって様々な自己を生成する可能性があるんだということを忘れてはならない。と、じぶんは思います。

あらすじ

「イディオッツ」を辞書でひくと「精神障害者」や「知能障害者」だとも出てくるのですが、両者はかなり違うものであるし、それがまとめられてることが、この言葉の古くささを感じざる終えないのだが、「イディオッツ」がどちらであるかは、結局のところ関係ないのだといえます。なぜならばこの映画に出てくるイディオッツたちは、全員まとめて詐病であるから、彼らはイディオッツを演じる、一種の反社会性集団だということだからだ。

彼らは、人をだまくらかし借り上げた大きな館で、共同生活をはじめるなかで、イディオッツをよそおいレストランではわざと嫌われる行為をして無銭飲食をしまくり、金持ちそうな家に入り込んで「おたくの敷石が出っ張っているおかげで、うちの車椅子の者がけがをした。転んだので売り物のクリスマスの飾りがぱあだ、どうしてくれる」と難癖をつける。いうなれば、当り屋のような、タチの悪いヤツラだ。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』がなければ公開不可能といわれたこの作品。ラース・フォントリアーとはなにものだろか。人間のイヤな面を描くことがするどく、この上ない。人間を容赦なく見つめ、向き合うことを強いる。

で、イデオッツって?

「イディオッツ」を辞書でひくと「精神障害者」や「知能障害者」だとも出てくるのですが、両者はかなり違うものであるし、それがまとめられてることが、この言葉の古くささを感じざる終えないのだが、「イディオッツ」がどちらであるかは、結局のところ関係ないのだといえます。なぜならばこの映画に出てくるイディオッツたちは、全員まとめて詐病であるから、彼らはイディオッツを演じる、一種の反社会性集団だということだからだ。 「たしかに『イディオッツ』は危険な映画だ。でも、その底には“役立たず”たちへの愛情が溢れている。誰もが幸せになることは難しいが、そう願わずにはいられないトリアー監督の“優しさ”が、ここには結晶している」 フライヤーに書かれたこの宣伝文句である。

“役立たず”たちへの愛情

人々の偽善を、自ら知的障害者のふりをするというやり方で暴こうとするストファーを中心としたグループ、イディオッツ。カレンは立ち寄ったレストランで、口からよだれを垂らし突然泣き叫ぶ彼らに偶然出会う。それが演技だと分かり最初は怒りをあらわにするカレン、次第に彼らに惹かれ、ストファーの叔父の持ち物である一軒家で共同生活を送るグループと行動を共にするようになっていった。そして、やがてカレンも、知的障害者の演技を始めるようになる。そんなある時、福祉事務所の対応に腹を立てたストファーが錯乱する。メンバーは必死に彼をなだめ、次の日、ストファーの誕生日を祝うためにパーティーを開いた。羽目を外し、乱交セックスを始めるメンバーたち。その中で一番若いジェッペとジョセフィーンは互いに愛し合っていることを確かめるが、翌朝、ジョセフィーンの父親が彼女を自宅へ引き戻しにくるのだった。ストファーは、グループの結束を形にして示そうと、自分が最も愛する人の前で知的障害者になるという、究極のテストを行なうことを提案した。そのテストからは次々と脱落者が出て、ついにカレンの番になった。彼女は立会人のスザンヌと共に自宅に戻り、愛する家族の前で知的障害者の演技を始めるのだった。

 「精神障害者」と「知能障害者」はだいぶ違うと書いたけれど、共通している部分もある。それは、その障害がコミニュケーション能力の低下に結びついているということだ。自分を伝えられない。彼らの人格は全部が「壁」で、「扉」がなくなってしまう。私たちはそこに入っていくことができず、場合によってははね返されたりする。そこに加害の意図がなくても、けっこう私たちは傷つく。彼らに対する偏見が生まれるとしたら、この軋轢によるところではないだろうか。

 イディオッツであってもなくても、私たちは自らその壁の中にこもることがある。それは多くの場合、自分を見失っているときだ。自分が見つからなかったら他人とのコミュニケーションなんかできないから。いや、自分がわからないからそのときは「イディオッツ(=愚か者)」なのだというべきか。

 この映画で感じたことは、一部のカルト教団とか自己啓発セミナーを思いだしてしまったのだけれど、映画の中の登場人物たちは、周囲とのコミニュケーションを壊すことで、コミュニケーションできる自分を作ろうとしていたのではないかと思わされた。 映画の最後に、この映画のなかの唯一の「まとも人」であったカレンが、夫の前で口に入れた食べ物をこぼしてみせるところはその象徴であったのではいかと思う。子どもを失った悲しみを抱える彼女は何かを訴えたかったし、コミニュケーションをしたかったのだ。でももちろん夫はその意味がわからなくて、妻をひっぱたく。 なんともいえない感情がかけめぐり、胸がしめつけられるエンディングでありました。

出演者とスタッフ

  • イディオッツ(1998年 デンマーク)

監督・脚本

  • ラース・フォントリアー

出演

  • ボディル・ヨアンセン
  • イェンス
  • アルビヌス
  • アンヌ・ルイーセ・ハシング

配給

  • スローラナー